だれかに遇うということ
自他が補完的であるというのは、自他のどちらかが関係において一方的な規定をもつことがないということです。
そしてそれは、”だれと”まみえるかが、(他者の他者としての)自己の規定に深く関わることを意味するようです。
「だれと遇うのか。」 その”だれ”がそのつど具体的な特定の他者であって、他者一般ではないということは、重要ないみを持ちます。なぜなら、じぶんがまみえているその他者がだれであるかによって、その場の構造が変わってくるからです。逆に、他者の「だれ」にまったく無頓着な、つねにニュートラルな立場は、ときに、あらゆるものにありうるという意味で他者を他者自身に深く媒介しうる可能性を持つとともに、しかしニュートラルがニュートラルなままで終始したときには、むしろ他者ののっぺらぼうの鏡と化して、逆にひとを自己閉鎖へと動機付けてしまうことにもありかねません。
ひとが特定のだれかといして他のだれかに遇うということ。そこには、遇われる他者の偶然性が含まれます。
自分が他者を選ぶのではなく、他者とそこで遇うのだということです。
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会話の隔たり
R・D・レインは、母親の子どもに対する的外れ的応答の例を挙げています。
「五歳の男の子が、大きなふという虫を手に持って、母親のところに駆けてきて言う。<お母ちゃん、ほら、すごく大きなふとい虫を捕まえたよ>。彼女は言う。<おまえったら、きたないわ。あっちへ行って、すぐにきれいになさい。>
この会話のなかで、母親と子どもの会話はすっかりすれ違っている。母親は、虫を見せよとする子どもに対して、会話のなかで次のようなメタ・メッセージを送りつづけています。「おまえが虫を持っているかどうかは、わたしにとってもちっとも重要じゃない。わたしにとって一番大事なのは、おまえが清潔か不潔かということで、おまえが清潔なときだけ、わたしはお前を好きになる」というメッセージです。「おまえが好きになる」というのは、「おまえを認める」ということでしょう。他者に「認められる」ことが他者の他者としての自己の存在を確証するいとなみの核にあるとすれば、ここには「認める」という行為はありません。
「こんなことをしでかすやつは、わたしの息子ではない」という父の言葉に、「おまえは、わたしが息子だとわたしがいえば、おまえはわたしの息子だ。おまえはわたしの息子ではないとわたしがいえば、おまえはわたしの息子ではない」という父のメタ・メッセージを読み、それをさらに、「自分こうであるとぼくがいうところの者にぼくはなる。また、自分はこうではないとぼくがいうところの者にぼくはならない」と解釈し、ついに、「自分は指を鳴らすだけでなりたい者になれる」という妄想にはまった青年の例を、レインはあげています。
これらは、他者との隔たりが極大になってしまった例です。
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見知らぬ男性に「結婚してください!」
他人の生をじぶんの生として生きてしまう投影的な同一化や、逆に他者の存在でじぶんを満たしてしまおうという合併的な同一化などがあります。ここでは他者の不在が他者との同一化によって一気に否定されます。
駅のホームで見知らぬ男性に「結婚してください」と声をかけたアンダースーザンの意識について(「内省の構造」長井真理子)を例に挙げると、ここでは、未知の者どうしのあいだにあるべき匿名の「無関係」という関係が、間主観的な妥当性を欠いたまま、ここではいきなり、すでにある程度の親密性を有しているかのような関係へと変更されることがあるというのです。<間合い>がクッションのような弾性をもちえなくなるのです。
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だれもわたしに話しかけてくれない
ひとは、「だれもわたしに話しかけてくれない」という理由で自殺することもあるのだそうです。
ひとはなんとか他者の他者としてのじぶんの存在を感じようとあがきます。
アイデンティティは他者との関係の中でそのつど与えられるもの、確証されるものであって、ひとが個としてもつ属性ではありません。ところがひとはしばしば、じぶんのアイデンティティを、「所有していたり、失ったと思ったり、探し求めたりするところの対象物」と勘違いしてしまうことがあるようです。
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生徒のいない教師はいない
そのような意味で、どのような人間関係であっても、そこには他者による自己の、自己による他者の「定義づけ」が含まれています。
ここで問題なのは、その役柄ではなく、たんに「だれ」として存在していることです。
そういう意味での他者のいづれに対しても、じぶんの存在はなんら意味を持っていないのではないかという思いにとらわれたとき。ひとはひどく落ち込みます。
”人間は、他者の存在の欠落を経験するのではなくて、他者に対する他者としての自分自身の存在の欠落を経験する。彼にむかって何かをなんらかの仕方で働きかけてこない他者、彼を誘惑し、強奪し、何かを盗み、窒息させ、食い尽くし、なんらかの仕方で彼を破壊しよういとしない他者に悩まされる。他者はそこにいるが、彼は他者に対してそこにいない。”(「自己と他者」R・D・レイン)
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あなたがいるから私がいる
− わたしが誰であるかということ − わたしのアイデンティティ、つまり「それによって、この時この場所でも、あの時あの場所でも、過去でも未来でも、自分が同一人物だと感じるところのもの」 − は他者との関係の中ではじめて現実化される。
と、R・D・レイン(精神科医)は、自他のアイデンティティの<補完性>を問題にしています。
そして、レインはそこで<場所>ということも問題にしています。
「すべての人間の存在は、子供であれ大人であれ、意味、すなわち他人の世界のなかでの場所を必要としているように思われる・・・・・ 少なくともひとりの他者の世界のなかで、場所を占めたいというのは、普遍的な人間的欲求であるように思われる。たいていの人びとは、少なくともひとりの他人の世界のなかで自分が第一の場所を占めるという経験を求める」(「自己と他者」R・D・レイン)
じぶんがだれの他者でありえているかの感覚が、自己の同一性感情の核をなしているというのです。
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やなぎのようにしなやかな会話
タイミングが、間が、うまくとれないとき、ひとは自分が発したことばで自他のすきまを埋めようとします。そうして、息せき切ったように話しながら、ほかならぬそのことによって自分が撒いたことばの集積のなかに閉じこもる。すると、じぶんをささえてくれるはずの他者との接触が、自己を侵犯してくる暴力へと裏返ってしまうことにもなります。
<間>のない会話は、クッションの無い箱の中の卵のようです。
箱の揺れとともに、固くてもろい表面がじかにごつんごつんと当たり、押しあいながら、やがてその表面にひびがはいってきてしまいます。
間 という、揺らぎを許容するすきまが、剛性ではなく柔性が、ひとの存在にしなりやたわみといった、少々のことではポキッと折れたりしないしなやかな強さを与えます。
逆に、間が大きすぎ、その隔てがほとんど壁のようになっているばあい、ことばは形式的なやりとりになり、ことばがたしかに相手にとどき、そしてその存在の奥深くに浸透してゆくということが起こりえなくなります。
そんな間の悪さから、できることなら相手の目の前から居なくなってしまいたいという居心地の悪さだけが、語らいのなかから浮き出しています。そうして、自己の内に撤退しようとしても、じぶんのなかをいくら覗き込んでみても、”これがじぶんだ”というものが見つかるわけではありません。自己の同一性、自己の存在感情というのは、日常的にはむしろ、(目の前にいるかいないかとは直接は関係なしに)他者によって、あるいは、他者を経由してあたえられるものであって、自己のうちに閉じこもり、他者から自分を隔離して得られるものではないのです。
他者から隔離されたところでは、ひとは<自己>を追い求めて、堂々巡りに陥ってゆきます。みずからの尾を呑み込みつづけるウロボロスの蛇のようなグロテスクなかたちでしか、じぶんにかかわれなくなってします。
私たちは、会話のにある<間あい>のお陰で、他人との関係の少々の齟齬やずれが、決定的なダメージにならなくてすんでいるのです。
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会話のなかで自分を休める
コミュニケーションというと、私たちはついつい合理的な目的を重視してしまう、つまり意思の一致、コンセンサス(合意)をイメージしてしまいますが、もしコミュニケーションを動機つけているものが、そのなかで各人が他者の存在とともにその前にいま疑いもなく存在するものとしてじぶんを感じることにあるとするならば、そこにおいてもっとも重要なことは、他のひと、じぶんとは異なる他の存在をそこにありありと感受するということです。他者との差異に深く思いをいたすことで、じぶんという存在の輪郭を思い知らされます。
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タイミング
日本語では、「好時機に行う、時宜に合わせる、拍子を合わせる」といった意味をもちますが、本来の英語ではこのような概念はあまり持っていないそうです。
しかし、このタイミングという言葉は、日本ではとても重要な意味を持ち、日常の中で使われているのです。
タイミングは一般的に、静止した対象との関係においては、あまり重要視されません。動いているものと動いているものとの関係、そのなかで「まるで空中ブランコの妙技のように、一瞬の<間>を捉えて相手に即応する」、まさにその臨機応変のやりとりが、タイミングと呼ばれています。そして動くものどうしのあいだのやりとりということは、関係のありかたをあらかじめ設定することはできないし、その行方をあらかじめ読み取ることもできない。まるで航海図のない航海のようにして会話というものが、はじまるのです。
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ことばの呼吸
会話のなかで呼吸があわないとき、ひとは相手のことばじりに敏感になります。ことばを確実にとらえようとして、ことばの意味に拘泥してしまうのです。
ことばは表現されていることのひとつの局面にすぎず、決してそれが全てではないのですが、聴くほうは語られたことばへと注意を惹き付けられ、視野が狭くなっていきます。
相手が語ることば、聴き手の受け答えとともにゆらゆら揺らぎ、つまずき、ころがりもするその不安定なことばが、一本の連続的な線でいらば論理的に、一義的につながれてしまいます。このようにして、ことばの受けとりかたが、相手の語りから免れてゆくのです。
そして、ますます呼吸があわなくなってしまう。いったん、そういうふうに呼吸がギクシャクしてくると、それを修復するのはとても難しいものになります。
ことばのやりとりにおける呼吸とは、時間的なもののようです。時間的な意味での<間>が、どういう膨らみをもっているか。どういうあそびやすきまをもっているのかが問題となります。これについては、精神科医の木村敏先生が「タイミング」の問題として、「偶然性の精神病理」のなかで取り上げていますので、引用します。(「聴く」ことの力―臨床哲学試論【鷲田清一著】からの引用の引用です。)
「父との関係がうまくいかない。父と衝突するとかならず調子が悪くなる。・・・・・タイミングがうまくとれない。父にタイミングを狂わされる。父にタイミングで負けている。すこしでも間があくとつけこまれる。人として話していても間がもてなくて、全体の雰囲気よりも早めに出てしまう。いつもフライングをしている感じで、リズミカルに行かない。自分がキープできない。間が持てないから、行動がスムーズに行かない。家で両親に対してだまっていた方がいいのかしゃべった方がいいのかわからない。しゃべろうとするときフッとそれを抑えるので、そのうちに話題が変わってしまってタイミングがずれる。
タメがないから加速度的に早くなって、パッパッと出ていく。待っていると苦しい。あせるというより、ふわっと出てしまう。自分の中で満たされないうちに出ていく。フライングみたい。全体の状況がつかめないからパッと出てしまう。」
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