2010年7月アーカイブ

だれかに遇うということ

「わたしは、彼らがわたしはこうであるというところの者でもないし、自分はこうであるとわたしが言うところのものでもない。」

自他が補完的であるというのは、自他のどちらかが関係において一方的な規定をもつことがないということです。

そしてそれは、”だれと”まみえるかが、(他者の他者としての)自己の規定に深く関わることを意味するようです。

「だれと遇うのか。」 その”だれ”がそのつど具体的な特定の他者であって、他者一般ではないということは、重要ないみを持ちます。なぜなら、じぶんがまみえているその他者がだれであるかによって、その場の構造が変わってくるからです。逆に、他者の「だれ」にまったく無頓着な、つねにニュートラルな立場は、ときに、あらゆるものにありうるという意味で他者を他者自身に深く媒介しうる可能性を持つとともに、しかしニュートラルがニュートラルなままで終始したときには、むしろ他者ののっぺらぼうの鏡と化して、逆にひとを自己閉鎖へと動機付けてしまうことにもありかねません。

ひとが特定のだれかといして他のだれかに遇うということ。そこには、遇われる他者の偶然性が含まれます。

自分が他者を選ぶのではなく、他者とそこで遇うのだということです。


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2010年7月10日

喜泉堂 (15:38)

カテゴリ:傾聴

会話の隔たり

他者の他者としてじぶんの存在を感じるためには、ある種の隔たりというものを介在しなければなりませんが、他者との隔たりが極大になってしまうと、すれちがいや的外れといった現象が発生します。そこでもやはり、<間あい>というものが欠如しています。

R・D・レインは、母親の子どもに対する的外れ的応答の例を挙げています。
「五歳の男の子が、大きなふという虫を手に持って、母親のところに駆けてきて言う。<お母ちゃん、ほら、すごく大きなふとい虫を捕まえたよ>。彼女は言う。<おまえったら、きたないわ。あっちへ行って、すぐにきれいになさい。>

この会話のなかで、母親と子どもの会話はすっかりすれ違っている。母親は、虫を見せよとする子どもに対して、会話のなかで次のようなメタ・メッセージを送りつづけています。「おまえが虫を持っているかどうかは、わたしにとってもちっとも重要じゃない。わたしにとって一番大事なのは、おまえが清潔か不潔かということで、おまえが清潔なときだけ、わたしはお前を好きになる」というメッセージです。「おまえが好きになる」というのは、「おまえを認める」ということでしょう。他者に「認められる」ことが他者の他者としての自己の存在を確証するいとなみの核にあるとすれば、ここには「認める」という行為はありません。

「こんなことをしでかすやつは、わたしの息子ではない」という父の言葉に、「おまえは、わたしが息子だとわたしがいえば、おまえはわたしの息子だ。おまえはわたしの息子ではないとわたしがいえば、おまえはわたしの息子ではない」という父のメタ・メッセージを読み、それをさらに、「自分こうであるとぼくがいうところの者にぼくはなる。また、自分はこうではないとぼくがいうところの者にぼくはならない」と解釈し、ついに、「自分は指を鳴らすだけでなりたい者になれる」という妄想にはまった青年の例を、レインはあげています。
これらは、他者との隔たりが極大になってしまった例です。


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喜泉堂 (15:38)

カテゴリ:傾聴

見知らぬ男性に「結婚してください!」

他者の他者としてのじぶん、それを経験できないとき、ひとはどうするか。ひとつには、<間あい>を超えて (<間合い>がもてない状態で )過剰に他者に接近しようとするところがあるそうです。
他人の生をじぶんの生として生きてしまう投影的な同一化や、逆に他者の存在でじぶんを満たしてしまおうという合併的な同一化などがあります。ここでは他者の不在が他者との同一化によって一気に否定されます。

駅のホームで見知らぬ男性に「結婚してください」と声をかけたアンダースーザンの意識について(「内省の構造」長井真理子)を例に挙げると、ここでは、未知の者どうしのあいだにあるべき匿名の「無関係」という関係が、間主観的な妥当性を欠いたまま、ここではいきなり、すでにある程度の親密性を有しているかのような関係へと変更されることがあるというのです。<間合い>がクッションのような弾性をもちえなくなるのです。



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喜泉堂 (15:37)

カテゴリ:傾聴

だれもわたしに話しかけてくれない

求められるということ、見つめられるということ、語りかけられるということ、ときには愛情ではなくて憎しみの対象、排除の対象となっているのでもいい、他人のなんらかの関心の宛て先になっているということが、他人の意識のなかで無視しあえないある場所を占めているという実感が、ひとの存在証明となります。

ひとは、「だれもわたしに話しかけてくれない」という理由で自殺することもあるのだそうです。

ひとはなんとか他者の他者としてのじぶんの存在を感じようとあがきます。
アイデンティティは他者との関係の中でそのつど与えられるもの、確証されるものであって、ひとが個としてもつ属性ではありません。ところがひとはしばしば、じぶんのアイデンティティを、「所有していたり、失ったと思ったり、探し求めたりするところの対象物」と勘違いしてしまうことがあるようです。



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喜泉堂 (15:37)

カテゴリ:傾聴

生徒のいない教師はいない

患者のいない医師や看護士はいません。教師としての、あるいは医師、看護士としての同一性は、たとえそれが一方的な関係であっても、やはり相互補完的なもののようです。
そのような意味で、どのような人間関係であっても、そこには他者による自己の、自己による他者の「定義づけ」が含まれています。
ここで問題なのは、その役柄ではなく、たんに「だれ」として存在していることです。
そういう意味での他者のいづれに対しても、じぶんの存在はなんら意味を持っていないのではないかという思いにとらわれたとき。ひとはひどく落ち込みます。

”人間は、他者の存在の欠落を経験するのではなくて、他者に対する他者としての自分自身の存在の欠落を経験する。彼にむかって何かをなんらかの仕方で働きかけてこない他者、彼を誘惑し、強奪し、何かを盗み、窒息させ、食い尽くし、なんらかの仕方で彼を破壊しよういとしない他者に悩まされる。他者はそこにいるが、彼は他者に対してそこにいない。”(「自己と他者」R・D・レイン)



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喜泉堂 (15:35)

カテゴリ:傾聴

あなたがいるから私がいる

アイデンティティを確立するためには、他者の存在が必要なようです。

− わたしが誰であるかということ − わたしのアイデンティティ、つまり「それによって、この時この場所でも、あの時あの場所でも、過去でも未来でも、自分が同一人物だと感じるところのもの」 − は他者との関係の中ではじめて現実化される。
と、R・D・レイン(精神科医)は、自他のアイデンティティの<補完性>を問題にしています。

そして、レインはそこで<場所>ということも問題にしています。

「すべての人間の存在は、子供であれ大人であれ、意味、すなわち他人の世界のなかでの場所を必要としているように思われる・・・・・ 少なくともひとりの他者の世界のなかで、場所を占めたいというのは、普遍的な人間的欲求であるように思われる。たいていの人びとは、少なくともひとりの他人の世界のなかで自分が第一の場所を占めるという経験を求める」(「自己と他者」R・D・レイン)

じぶんがだれの他者でありえているかの感覚が、自己の同一性感情の核をなしているというのです。



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喜泉堂 (15:34)

カテゴリ:傾聴

やなぎのようにしなやかな会話

先日、あるセミナーに行ったときに、「この世の中で一番強いものは”やなぎ”である。」と有名が先生がおっしゃっていました。時の流れ、時代の移り変わりに対して柔軟に対応して変化する。それは決して、強くて硬い剛性ではなく、むしろ柔性こそが、少々のことではポキッと折れたりしないしなやかな強さを持っているのです。

タイミングが、間が、うまくとれないとき、ひとは自分が発したことばで自他のすきまを埋めようとします。そうして、息せき切ったように話しながら、ほかならぬそのことによって自分が撒いたことばの集積のなかに閉じこもる。すると、じぶんをささえてくれるはずの他者との接触が、自己を侵犯してくる暴力へと裏返ってしまうことにもなります。

<間>のない会話は、クッションの無い箱の中の卵のようです。

箱の揺れとともに、固くてもろい表面がじかにごつんごつんと当たり、押しあいながら、やがてその表面にひびがはいってきてしまいます。

間 という、揺らぎを許容するすきまが、剛性ではなく柔性が、ひとの存在にしなりやたわみといった、少々のことではポキッと折れたりしないしなやかな強さを与えます。

逆に、間が大きすぎ、その隔てがほとんど壁のようになっているばあい、ことばは形式的なやりとりになり、ことばがたしかに相手にとどき、そしてその存在の奥深くに浸透してゆくということが起こりえなくなります。

そんな間の悪さから、できることなら相手の目の前から居なくなってしまいたいという居心地の悪さだけが、語らいのなかから浮き出しています。そうして、自己の内に撤退しようとしても、じぶんのなかをいくら覗き込んでみても、”これがじぶんだ”というものが見つかるわけではありません。自己の同一性、自己の存在感情というのは、日常的にはむしろ、(目の前にいるかいないかとは直接は関係なしに)他者によって、あるいは、他者を経由してあたえられるものであって、自己のうちに閉じこもり、他者から自分を隔離して得られるものではないのです。

他者から隔離されたところでは、ひとは<自己>を追い求めて、堂々巡りに陥ってゆきます。みずからの尾を呑み込みつづけるウロボロスの蛇のようなグロテスクなかたちでしか、じぶんにかかわれなくなってします。

私たちは、会話のにある<間あい>のお陰で、他人との関係の少々の齟齬やずれが、決定的なダメージにならなくてすんでいるのです。


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喜泉堂 (15:33)

カテゴリ:傾聴

会話のなかで自分を休める

会話における<間>というのは、そこに自分をあづけることによって自分の枠を緩めたり、目の前にいる他者のその他者としてじぶんを感じたりというふうに、そこにおいてじぶんが揺さぶられ、また捏ねられ、あらたな形を与えられる、ときにはそこでじぶんを休める、いわが自己調整の場ということができます。

コミュニケーションというと、私たちはついつい合理的な目的を重視してしまう、つまり意思の一致、コンセンサス(合意)をイメージしてしまいますが、もしコミュニケーションを動機つけているものが、そのなかで各人が他者の存在とともにその前にいま疑いもなく存在するものとしてじぶんを感じることにあるとするならば、そこにおいてもっとも重要なことは、他のひと、じぶんとは異なる他の存在をそこにありありと感受するということです。他者との差異に深く思いをいたすことで、じぶんという存在の輪郭を思い知らされます。



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喜泉堂 (15:33)

カテゴリ:傾聴

タイミング

”タイミング”は、タイム(時間)が動詞化した外来語です。
日本語では、「好時機に行う、時宜に合わせる、拍子を合わせる」といった意味をもちますが、本来の英語ではこのような概念はあまり持っていないそうです。

しかし、このタイミングという言葉は、日本ではとても重要な意味を持ち、日常の中で使われているのです。

タイミングは一般的に、静止した対象との関係においては、あまり重要視されません。動いているものと動いているものとの関係、そのなかで「まるで空中ブランコの妙技のように、一瞬の<間>を捉えて相手に即応する」、まさにその臨機応変のやりとりが、タイミングと呼ばれています。そして動くものどうしのあいだのやりとりということは、関係のありかたをあらかじめ設定することはできないし、その行方をあらかじめ読み取ることもできない。まるで航海図のない航海のようにして会話というものが、はじまるのです。



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喜泉堂 (15:32)

カテゴリ:傾聴

ことばの呼吸

わたしたちはしばしば、「呼吸があう/あわない」というふうに表現することがあります。
会話のなかで呼吸があわないとき、ひとは相手のことばじりに敏感になります。ことばを確実にとらえようとして、ことばの意味に拘泥してしまうのです。
ことばは表現されていることのひとつの局面にすぎず、決してそれが全てではないのですが、聴くほうは語られたことばへと注意を惹き付けられ、視野が狭くなっていきます。

相手が語ることば、聴き手の受け答えとともにゆらゆら揺らぎ、つまずき、ころがりもするその不安定なことばが、一本の連続的な線でいらば論理的に、一義的につながれてしまいます。このようにして、ことばの受けとりかたが、相手の語りから免れてゆくのです。

そして、ますます呼吸があわなくなってしまう。いったん、そういうふうに呼吸がギクシャクしてくると、それを修復するのはとても難しいものになります。

ことばのやりとりにおける呼吸とは、時間的なもののようです。時間的な意味での<間>が、どういう膨らみをもっているか。どういうあそびやすきまをもっているのかが問題となります。これについては、精神科医の木村敏先生が「タイミング」の問題として、「偶然性の精神病理」のなかで取り上げていますので、引用します。(「聴く」ことの力―臨床哲学試論【鷲田清一著】からの引用の引用です。)

「父との関係がうまくいかない。父と衝突するとかならず調子が悪くなる。・・・・・タイミングがうまくとれない。父にタイミングを狂わされる。父にタイミングで負けている。すこしでも間があくとつけこまれる。人として話していても間がもてなくて、全体の雰囲気よりも早めに出てしまう。いつもフライングをしている感じで、リズミカルに行かない。自分がキープできない。間が持てないから、行動がスムーズに行かない。家で両親に対してだまっていた方がいいのかしゃべった方がいいのかわからない。しゃべろうとするときフッとそれを抑えるので、そのうちに話題が変わってしまってタイミングがずれる。
タメがないから加速度的に早くなって、パッパッと出ていく。待っていると苦しい。あせるというより、ふわっと出てしまう。自分の中で満たされないうちに出ていく。フライングみたい。全体の状況がつかめないからパッと出てしまう。」




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喜泉堂 (15:31)

カテゴリ:傾聴

ただお茶をいれるということ

「ある看護婦が、ひとりの、いくらか緊張病がかった破瓜型分裂病患者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。<だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれて初めてです。> 」(『自己と他者』:R・D・レイン)

”だれかにお茶をいれるということ、これはだれもが日常的にしていることである。この患者とていままでに一度も他人にお茶を入れてもらった経験がないわけではないだろう。ではどうして、これを「生まれてはじめて」と感じたのだろうか。
 精神科医のレインは、こう解釈している。あるひとがわたしに一杯のお茶を入れてくれるばあい、そのひとはわたしの気を惹こうとしているのかもしれない。わたしを味方につけようとしているのかもしれない。わたしに親切にしておいて、あとからなにかをぜびろうという魂胆があるのかもしれない。あるいは、じぶんの茶碗やティーポットを見せびらかしていることもありうる。あるいは、あるいは・・・。
 だれかにお茶を入れるということ、そのことが、他人に求められたからでなく、業務としてでもなく。もちろんティーセットを自慢するためでもなく、「だれかのため」「なにかのため」という意識がまったくなしに、ただあるひとに一杯のお茶を供することとしてあって、それ以上でも以下でもない、そういうふうにして他人にお茶を入れてもらったと患者が感じたことはこれまでなかったというのだ。
 ことばもなく、ただお茶を供するだけの行為が、どうしてこうも深い充足感をもたらすのだろうか。間がもたない、間をとれないという、わたしたちが日々、他人との会話の中で味わうあのぎこちなさとは、およそ正反対の時間である。”

とても深い内容だと思います。合理的に考えて行動していることの多い現代社会では、このような場面に出会うことはもしかしたら少ないかもしれません。
私たちは、日々を生きていくために、どうしても知らず知らずのうちに計算してしまう癖がついていると思います。
「あることの為に〜をする。」「〜だからこうなる。」 物事には全てに原因と結果があるでしょう。何かが存在したり、何かをしたりすることには、なにかしらの理由があるでしょう。
でも人は、理由さえないところに、すべてを超越したところに、深い感動を覚えるのだと思います。

そのためには、自分自身が、一致している(受容)こと、つまり、ありのままの透明な自分でいることが、とても大切なことだと思います。




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喜泉堂 (15:30)

カテゴリ:傾聴

黙りあい

「彼等はつぎつぎと話相手をかえては、より深いコミュニケーションを求めて裏切られてゆく。そして、沈黙も饒舌も失ってスキーキング・マシーンのように「話しかける」ことと「生きること」とを混同しながら年老いてゆくのである。」(東京零年:寺山修司)

沈黙が死んでゆく・・・黙っていられない人たちが増えていく・・・、寺山修司は、いま失いかけているのは「話しあい」などではなく「黙りあい」なのではないか、と問うています。

”しゃべればしゃべるほど空しい気分になる経験、それを押し殺してしゃべるのが人生だ、と言うつもりはないが、ことばがまことのそれであって空語でないという確信を、ひとはどういうときに得るのだろうか。
 意が伝わらないもどかしさにしだいに声を荒げるひと。かれの声が大きくなるにつれて、そのもどかしさはかえって目立つことはあっても、消えることはない。
 逆に、深い沈黙のなかで、ひとは語りつくすことに劣らぬ濃密な交感にひたることもある。”

生まれ育った小さな島に高等学校が無かった私は、中学卒業後に親元を離れました。
そして、一ヶ月に一度、実家に帰省していました。当時、私の家族は親戚と夕食を共にしていました。3歳上の親戚の兄ちゃんは、島で漁師をしていました。子供のころは、よく遊んでもらいました。基本的に、その兄ちゃんも私も、口数のすくないほうです。海の男は、寡黙なのです(笑)
久しぶりに会っても、会話を交わすことなく、黙々と一緒にご飯を食べています。
そんな光景を見て、おばあちゃんが笑っていいました。
 「おまえたち二人は、久しぶりに会っても、”元気でやっとるか?”と黙って目でしゃべってるだけだなぁ。」と・・・。
そう、その時の私は、黙ってただ相手の存在を意識していただけでした。

東京にきてからは、このようなことがなかなかできなくなりました。
言葉でしゃべらないと相手に伝わらないからなのか、相手の気まずさを感知して、それによってこちらも気まずさを感じてしまって、そわそわしてしまうことが多くなりました。

もういちど、あるがままの自分を取り戻さなければいけないなぁ、と感じています。



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喜泉堂 (15:28)

カテゴリ:傾聴

ことばと沈黙

”あるひとが目の前に居る。その間に交わされることばはない。ふたりの間の沈黙。それが、深い沈黙、厚い沈黙とでもいうべきものであって、会話の不在でないというのはどうしてなのだろう? ことばの不在が空虚ではなく、おしゃべり以上に充実していることがあるのは、どうしてなのか。
 一方で、ひとはふつうことばの不在を恐れる。ことばが途切れたとき、そしてどちらからもとっさにその不在を埋めることばが出てこないときの気まずい沈黙。そのとき、なにかそれまでの関係がすべて作り物であったかのように、色褪せてくる。他者の親密な感触というものが、あっけなく崩れる。その不在の前で、じぶんの存在すらも、へちまのようにすかすかになっている・・・。
 ひとはこういう空虚に耐えきれず、どうにかしてことばを紡ぎだそうとする。かれが話しているのかじぶんでもよくわからないようなことばが、次から次へと虚空に向かって打ち放たれる。しかし、そのことばは相手に届くことなく、かといってじぶんのもとへ戻ってくるわけでもなく、ただ空しい軌跡を描くばかり・・・。そして、ことばではなく、その不在だけがしらじらとあらわになってくる。そしてじぶんは、一刻でもはやく、その場を逃れたがっている”

神戸に向かう電車の中で感じた沈黙と、いっぽうで間が持たず落ち着かない沈黙。
人の話を聴くときにとても重要になってくるのは、この「沈黙」を大切にすることではないでしょうか。

現代は、「沈黙」するということが、上手くできない人が多くなっているように思います。


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喜泉堂 (15:28)

カテゴリ:傾聴

うん、愛してるから

そのクライアントさんのたくさんの話を聴いて、私は思わずこういいました。

 「たくさんのひとから愛されているね!」

この言葉に対して、すごく素直に、

 「うん。愛しているから。」

と、ことばが返ってきました。

なろほど、そうなのですね。
じぶんのしたことが、じぶんにかえってくる。

実に当たり前のことなのですが、なかなかできるものではありません。
それを、こんなに素直にできてしまう人に、ちょっと感動してしまいました。



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喜泉堂 (15:27)

カテゴリ:傾聴

沈黙が織り成す深い深いコミュニケーション

ある晴れた日、自由が丘のベンチに織りの着物をきちんと着こなした上品なおばあちゃんが座っていました。びっくりするくらいカッコイイんです。おもわず見とれてしまいました。

同じような感覚を、3年半くらいまえにあったことを思い出しました。
それは、神戸へ向かう電車の中でのこと。就職活動中だった私は、そんなに混んでいない昼間の電車にのんびりとすわっていました。
そこへ、着物を”しゃん”と着込ましたおばあさんが乗ってきて、となりの席に座りました。そのときに私は、ほんの一センチか二センチくらい、横にずれて席を空けてあげたのです。どうってことのない、ふつうの、何気ない動作でした。
しかしそのおばあちゃんは、私に対して「ありがとうございます」と丁寧にお礼をいてくれました。私はすこしドギマギしながら、「いえ、どういたしまして。」となんとか答えを返しました。
それから15分くらいでしょうか。おばあさんがある駅で降りるまで、最初はとなりが気になって気になって仕方が無かったのですが、話しかける勇気もありません。おばあちゃんは、みじろぎ一つせず、背中をしゃんと伸ばして座っています。うーん、かっこいい。暫くの間、ただ深い深い沈黙の時間がゆっくりと流れていきました。
そして、おばあちゃんは、降りるために席を立ったときに、もう一度「ありがとうございます」と言ってきたのです。またもやドギマギしてしまった私は、ふりしぼったような声で「いいえ。どういたしまして・・・」と小さな声で答えました。我ながら、かっこ悪いなぁ。。。
でもその日は、一日中気分の良いすがすがしい日でした。
交わした会話は「ありがとう」と「どういたしまして」の二回だけ。でも、沈黙の時間の中に共有したものがあった気がして、ちょっとハッピーだったのです。

そういえば最近は、ほんとうにカッコイイひとが少なくなりましたね。
素敵に年をとりたいものです。


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喜泉堂 (15:27)

カテゴリ:傾聴

ふれあいのむずかしさ

”声が届くということのむずかしさは、話しかけることがこれだけで孤立的に機能しやすいという面があるからだろうか。話がつうじないとき、ふつう内容をもっと細かく、ていねいに話そうとする。が、皮肉なことに、内容が細かくなればなるほどこころが離れているようにおもわれてくる。で、あせってもっとしゃべる。ことばの真空状態がこわくて、さらに機関銃のようにことばを発射する・・・・。余裕というか遊びがなくなるのだ。
 同じむずかしさは聴くことについてもいえる。聴くことはかならずしもすべてのことばをきちんと受けとめ、こころに蓄えるということではない。あまりにきちんと聴き、一言一言に対応されると、かえって胸が詰まってしまうときがある。言葉を受けとめるといっても、そこにはつねにアースが必要だ。じぶんがきちんと受けとめたら、自分のほうが持たない。それにがしっと受けとめると、それが反射して相手に悪影響を与えることもある。
 「聞き流す」とふつうわたしたちがいっている行為に含まれるこの独特の呼吸は、他人の話を聴くということが、その言葉をぴたりと受けとめるとうこととは微妙に異なることを教えている。「間」ということばをここで思いだしてもいい。声がとどかなければはじまらないが、声がぴたりと当たりすぎると逆に苦しくなる。”

もし話を聞いてくれる相手が、発したことばの全てを聞き逃すまいとウンウンうなづきならが話を聞いていたとしたらどうだろうか?
発したことばの内容をすべて合理的にきちんと理解されたとしたら、話しやすいだろうか?
人間は遊びがないと息苦しくなるのですね、きっと。
ある程度のいい加減さとか遊びとか余裕とかがないと、落ち着かないのだと思います。

話を聴くということも、声をとどけることと同じように、むずかしいのですね。。



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喜泉堂 (15:26)

カテゴリ:傾聴

ことばのふれあい

「からだ」と「ことば」のレッスン (講談社現代新書)「からだ」と「ことば」のレッスン (講談社現代新書)
著者:竹内 敏晴
販売元:講談社
発売日:1990-11-16
おすすめ度:5.0
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「ただ人がひとりひとり自分のからだに気づき、まっすぐに立ち、向かいあい、触れあうことをめざして探ってきた試みであり、いわば、ひとりの人間となって鮮やかに立つことへと常に歩み出していく手がかりにすぎない」
(竹内敏晴:講談社現代新書『「からだ」と「ことば」のレッスン』より)

この「話しかけのレッスン」は、声が届くという感じをまさに体験できるものだそうです。

その中で面白いのは、例えば距離が遠く離れているので一生懸命に声を届かせようと大きい声で話しかけたり、身を乗り出だしてなんとか声を届けようとすればするほど、その努力に反して声が届かなくなるということです。
逆に、あまりにも声がとどかないので、いらだって感情的になったとたんに、ズバッと声が届くこともあるそうです。

自分の声がうまくとどいている感じがしないとき、ひとは声をとどかせようとして、相手との隔たりをあらためて計量し、その隔たりに負けないような量の音声で呼びかけようとするが、そうそうればするほど、相手はじぶんがはなしかけられたという感じがしなくなるという哀しい事実が浮かび上がってきます。

ことばをとどかせようとして声を大きくしたり、身を乗りだしたりすればするほど声は届かなくなるというアイロニー、
ことばを伝えようと意識するよりも、ことばが伝わらないことにいらだって衝動的に発した濃やかさを欠いたことばのほうがきちんとつたわるという哀しいアイロニー、
そして最後に、話しかけたい相手との距離を測って声量をコントロールすればするほど、相手はじぶんにはなしかけられているという気がしなくなるという、二重に哀しいアイロニー・・・・・このようなアイロニーはなぜ発生するのでしょうか?

竹内敏晴氏は、”距離を意識した瞬間に、もう終わっている”と分析しています。

つまり、自分の声が相手に届いていないのではないだろうかと意識した瞬間に、もう声は届かなくなってしまっているのだとおもいます。そしてそれは、ふたりの間のシンクロニズム(共時性)の世界がとぎれてしまったことによるものなので、もう声量の問題で解決できるものではないのでしょう。

「話し言葉のもっとも基本的な問題」がここに隠されています。

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)
著者:竹内 敏晴
販売元:筑摩書房
発売日:1988-01
おすすめ度:4.5
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喜泉堂 (15:26)

カテゴリ:傾聴

雨声

雨の日は好きですか?

私は、車のエンジンを止めて聴く雨音が好きで、時の経つのを忘れてしまいます。

「雨の日は、いつもと違う音がします。靴音も、車が走り抜けていく時の音も。
そして話し声の伝わり方も、いつもとどこかちょっと違う感じがします。」

コーチングをしているクライアントさんから、そんなメールを受け取りました。
うん、その通りですね!


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喜泉堂 (15:24)

カテゴリ:傾聴

ことばが届くということ

路上でふと名前を呼ばれてドキッとしたことがありますか?

でもすぐに、気配で、だれかが同じ名前の別人に声をかけていたのだとわかる。
逆に、名前を呼ばれたわけでもないのに、誰かが後ろからじぶんに語りかけていると感じることもある。何度も何度も呼ばれているのに、ぼ〜っとしていてその声に気が付かないこともあるし、話しかけられる前にふとそんな予感を感じて先に耳を傾け始めることもある。

ことばが、まるでそのひとにふれるかのように、そのひとにとどくというのは、
一体どういうことなのでしょう?

これも「眼がかちあう」と同じように、音をたてる物、振動している物と、耳や鼓膜との関係といった、単なる物理的な関係として合理的に説明できるものではないのでしょう。

声がぐさっと突き刺さる、声が甘くて気持ちいい、声が執拗にまとわりつく、ガラガラ声が皮膚を掻きむしるようだ、優しい声に癒される。

このようは言い回しは、何かに例えた比喩的な表現というよりもむしろ、そのようなありのままの感覚を素直に表現した言葉なのだと思います。

「ことばが届く」というこの感覚は、そのことばが「だれか」に向けて話されたということ、そのことの大切さを意味しているとおもいます。そう、それは存在しないひとに向けて話されたことばではなく、特定の「だけか」に向けて話された言葉だという事実。

だれかに話しかけられるだろうか、あのひとは声をかけてくれるだろうか、このことばはかれに届くのだろうか、わたしのことばはあのひとに受けとめてもらえるだろうか・・・。

このようにこころ想う日常の中で、「話を聴く」という相手の言葉を受けとめる行為が、おもい煩う人にとってどれほど心強いものになるだろう。

おもいとどかない99%が運命であったとしても、残りの1%に夢を託してしまいます。


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喜泉堂 (15:23)

カテゴリ:傾聴

鏡のテオーリア

「私が或る人の眼を美しいと思ったり、眼の表情に注意したりすることができるのは、その人が私にまなざしを向けているまさにそのときではない。彼が彼にまなざしを向け、彼が私にまなざしを向けていないとき、私は距離をおいて彼の眼を知覚することができる。ところが彼が私にまなざしを向けた刹那に、彼のまなざしは彼の眼をおおいかくしてしまう。彼の眼と私の眼との間の距離が消え失せ、文字通り二つの眼がかち合うのだ。その刹那には私は彼の眼を知覚することができない。ただまざまざとまなざしを意識するばかりである。 」『鏡のテオーリア』(多田智満子)

”眼があったとき、吸い込まれるような求心的感覚と撥ね退けるような遠心的感覚が同時に発生する強い磁場のうちに引きずり込まれ、もはや物や対象を見るように、相手をまなざすことができなくなってしまう。

この一つの磁力圏へと引き入れられたとき、お互いにシンクロナイズされた状態になり、自他はともに同じひとつの共通の<現在>につなぎとめられ、そこから任意に退去することはできない。他者と眼がかちあったときに、自分の視線がひきつったり、凍りついたりするような感じがともなうのは、他者の視線がじぶんの意識の内部閉鎖を不可能にしてしまうからである。
他者と眼がかちあうとき、わたしは自らのなかに引きこもることを禁じられ、先が見えないままひとつの<共同の現在>へと自分の存在が引きずりだされ、その場に身をさらしつづけることを強いられる。わたしのことばが、そしてわたしの意のままに操ることのできないわたしの表情が、他者の思いがけないことばを引き出し、さらには他者自身も気づいていない表情を誘い出す。。。”

実際に私も・・・感じることがあります。
話をしているとき、相手に眼を向けてはいても、物を見るようにまなざしているのとはちょっと違う、少し漂っているようなまなざしの感覚。
きっとその時のまなざしは、相手を分析するように見ているのではなく、ただまなざすというそれ以上でもそれ以下でもなく、無意識に相手を見ているのだと、そんな気がします。
・・・よく分かりません。(>_<)

まなざしに関しては、これくらいで・・・さらに詳しくは、こちらの本をどうぞっ!(^^);

顔の現象学 (講談社学術文庫)顔の現象学 (講談社学術文庫)
著者:鷲田 清一
販売元:講談社
発売日:1998-11-10
おすすめ度:4.0
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喜泉堂 (15:22)

カテゴリ:傾聴

眼がかちあうということ

誰かと眼がかちあったとき、ドキッとして視線を逸らした経験はあるでしょうか?
別に悪いことをしているわけでもなく、特別な意識が無くても。。
知らない人と眼があった時だけでなく、知っている人とでも。。。

”わたしは他人がなにかを見ているその姿を、脇からそっと見ることはできる。
しかし、見ているその人がわたしのまなざしを頬に感じて、ふとまなざしをこちらに向けると、わたしはあわてて眼を伏せたり、視線を外したり、どぎまぎして視線をうつろに漂わせたりする。そのうちにまた気になって視線を戻すが、眼があってしまうと顔はひきつってしまって、相手の眼(まなざし)や顔(おもざし)を対象として見る、眺めるといった余裕は無くなってしまう。他人(の顔)を見るとわたしたちはかんたんに言うけれど、他人を見るということがもしある対象を見るように見るということであれば、それは、鍵穴から覗くとか医師が患者を診るとか画家がモデルを見つめるといった場合のように、きわめて例外的なケースであると思われる。”

この文章に、もしかしたら共感を覚えない人もいるかもしれません。
人の眼を見て話すことをごくごく自然にできるひとを、私は何人か知っていますから。
でも私は、この文章にすごく共感してしまうのです。ふと眼があってしまったときに、まるで逃げ場所を失ってしまったかのような、あの感覚。もはや逃げることもできず、隠れることもできず、後戻りができなくなってしまった場面。かといって気まずい雰囲気になるわけでもなく、いやむしろそのことによって相手との距離が一歩近づき、親しくなれたかのような不思議な感覚なのです。

でも、まだよく分かりません。私はそんなに目が良くないのだから、相手の黒い眼が私の顔を見ているのかそうではなくただその近くを見ているだけなのか、判断できるわけでもないのに、でも何故か、その二つの黒い丸が私を見ていて眼があったと分かる、その感覚はどこからくるのだろう? それはきっと、視力で判断しているわけではないのでしょう。

そこにはシンクロニズム(共時性)の世界があり、そのとき同じ空間に居て同じ時間を共にしているからこそ、まるでテレパシーのようなものを感じることができると思うのです。


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喜泉堂 (15:21)

カテゴリ:傾聴

話を聴くことで、話し手の本質に注意を向けさせる

哲学者カントが著した『道徳形而上学原論』に、哲学を勉強するものなら誰でも知っているという有名な文章があります。(ここでは、「聴く」ことの力―臨床哲学試論 から、孫引用させていただきます。)

”通常の人間理性は羅針盤を手に持って、それが現実に出会うすべての場合に、何が義務にかない何が義務に反するかを、区別するすべをまことによく心得ており、その際こちらから通常の人間理性に何か新たなことを少しも教える必要はなく、ソクラテスが昔したように、理性をして理性自身の原理に注意させるだけでよいということ。したがってまた人は正直で善良であるために、それどころか賢明で有徳であるために、何をなすべきかを知るのに、学問も哲学もまったく必要とせぬということ。・・・・・・通常の悟性は、哲学者と全く同様に正しい理解に到達できるという抱負をもつことができるのであり、それどころか、この点では哲学者自身よりも確かだとさえいいうるほどなのである。・・・・・それゆえ、道徳の個々の問題については、通常の人間悟性だけで十分だと考え、哲学をもち出すのはたかだか道徳の体系をいっそう完備したわかりやすい形で、かつ道徳の規則を実用のために便利な形で、示すためだけに限り、実践的見地で通常の人間悟性をその幸福な素朴さから離れさせ哲学により探究と知識獲得との新たな道に向かわせようなどとすることはやめたほうが良いのではないかと思われる。”(『道徳形而上学原論』/野田又夫訳)

長い引用になりましたが、話をすることと話を聴くことに置き換えてみます。

哲学というとどうしても、言葉で真理を言い表すことだと思いがちでが、そもそもその昔、哲学は「対話」とともに始まったといいます。そしてそれは、話すことではなく、むしろ聴くことから始まったというのです。

古代ギリシャの哲学者 ソクラテス は、街頭に出て対話を繰り返したといいます。それは、自分が語りだすというより、他人の言葉[ロゴス]を聴くことで導き、真の知に至りつくその手助けをする---「産婆術」といわれる---そいうい媒介者にじぶんをなぞらえました。(みずからは一冊の書き物も残さず、プラトンが後に書物にまとめました。)

つまり、人の話を聴くことをして、話し手の本質に注意を向けさせるだけでよいのです。

話をすることで、人は自分の内面に注意を向け、その本質に気づくことができるのです。
つまり人の話を聴くことは、まさにそれを導き出すことであり、それゆえ「産婆術」といわれるゆえんでもあるのです。

語る,諭す,教える,知識を与えるという、他者に働きかける行為ではなく、論じる,主張する,意見をいうという自己表出の行為でもなく、<聴く>という、他者の言葉を受けとる行為、受けとめる行為の深い深い意味が、ここにあるのです。



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喜泉堂 (15:20)

カテゴリ:傾聴

初めにロゴスありき?

「初めにロゴス[ことば]ありき。ロゴスは神とともにあり、ロゴスは神なりき」

ヨハネ福音書の冒頭の言葉です。

”しかし、ロゴス[ことば]が神になるためには、聴くという行為があってこそ。
いやむしろ、はなしをすること、そして、その言葉の意味だけを合理的に追求してしまう事が、まことのことばを封じ込めてしまうことはないだろうか?
 まことのことばを知るためにこそ、私たちは語ること以上に、聴くことを学ばねばならないということはないだろうか。”

話すためにはまず、聴かなければなりません。「幸せな話し方」を覚えるためには、まず聴くこと。鶏が先か卵がさきかではなく、聴くことが先のように思うのです。

聴くことができてこそ、話すことができるようになる。

そもそも話はつねにだれかに向けてなされるものです。そして、一人の話し手に対して、一人以上、複数の聴き手がいます。話は、聴かれるという行為のほうが、断然多いはずです。

日常でも、言葉を聴くことのほうが、回数が多いはずですよね。
この”聴く”ということを、もっと上手にすることができたのなら、もっともっと幸せになれるかもしれないと思います。



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喜泉堂 (15:18)

カテゴリ:傾聴

受け入れるということ

初めてカウンセリングの勉強をしたのは、”キャリア・コンサルタント養成講座”を受講したときのことでした。つい最近のことです。それも、ほんのさわりだけ・・・。

相手を受容すること。そのために、相手の気持ちをそのまま受けとめて返す。

中川米造医療のクリニック「癒しの医療」のためにと言う本の中に、「ターミナル・ケアをめぐるアンケート」の結果があるそうです。この調査の対象は、医学生、看護学生、内科医、外科医、ガン医、精神科医、そして看護婦。このアンケートには次のような設問です。

「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」という患者のことばに対して、

(1)「そんなこと言わないで、もっと頑張りなさいよ」と励ます。
(2)「そんなこと心配しないでいいんですよ」と答える。
(3)「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。
(4)「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるわね」と同情を示す。
(5)「もうだめなんだ……とそんな気がするんですね」と返す。

結果は医師と医学生のほとんどが、(1)。
看護婦と看護学生が(3)。
そして精神科医が(5)を選んだそうです。(5)は、一見、なんの答えにもなっていないようみえますが、実はこれは解答ではなく、「患者の言葉を確かに受けとめましたという応答」なのだそうです。

”<聴く>というのは、なにもしないでただ耳を傾けるという単純な行為ではない。それは、語る側からすれば、ことばを受けとめてもらったという、たしかな出来事である。こうして「人は、口を開きはじめる。得体の知れない不安の実態が何なのか、聞き手の胸を借りながら探し求める。はっきりと表に出すことができれば、それで不安は解消できることが多いし、もしそれができないとしても解決の手掛かりは、はっきりつかめるものである」。
 聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場をひらくということであろう。じっと聴くこと、そのことの力を感じる。かつて古代ギリシャの哲学者が<産婆術>と呼んだような力を、あるいは別の人物なら<介添え>とでも呼ぶであろう力を、である”

何度も何度も、ここの文章を読み返しました。普段の日常の中で当たり前のようにしている「話を聴く」というこの行為が、どれだけ他者に貢献しているのだろう。

古代ギリシャの哲学者 ソクラテス は、街角に出て対話を繰り返した。それも、自分が語るのではなく、他者のことばに耳を傾けることで、ロゴス(ことば)を導き、真の知識に至りつくその手助けをしたそうです。

話を聴こう。そこから始まる気がするのです。


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喜泉堂 (15:17)

カテゴリ:傾聴

聴くという行為


1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部をマグニチュード7.2の大地震が襲いました。この「阪神・淡路大震災」の際に行われた「こころのケア」というボランティア活動は、「心のケア」について記されたパンフレットを配りながら、被災者の話を聴くことを行ったといいます。

ただ話を聴くという行為。この聴くということだけが、爛れたひとのこころの皮膚を、破れ目はいっぱいあっても、あるいはつぎはぎだらけであっても、かろうじて一枚つづりになった薄膜で覆うことができた・・・。

聴くということは、相手を受けとめ、そして受け入れることだと思います。
どうしようもない想い、行き場所のない想い、やるせない想い。いくらぶつけてみても解決できないことだけれど、それを受けとめてくれる人がまさにそこに存在すること。

聴くということの無限の力を、そこに感じるのです。


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喜泉堂 (15:14)

カテゴリ:傾聴

「聴く」と「話す」の順番を間違えないで!

さて、物事の本質には、正しい”順番”というものがあるように思います。
いただきますと言ってから食べる。働いたから食べる。ドアを開けてから外に出る。
このように、”話す”と”聴く”にも、よりよい順番があるのではないでしょうか?

例えば、親子の関係が上手くいかないとき。まずしなければならないことは、親の気持ちを子供に話したり訴えたりするまえに、子供の話をよく聴くことから始めるべきです。

同様に、より良い人間関係を構築するためには、まず話を聴くこと。
部下の話を聴く、子供の話を聴く、生徒の話を聴く、住民の話を聴く、お客の話を聴く。

とくに立場が上の人や強い人こそ、へりくだって話を聴くべきです。
相手の話を、まずよく聴く。そして、話す。この順番が良いと思うのです。

人は話をすることで幸せを感じることができるのであれば、まず話を聴いてあげること。
つまり、人を幸せにした後で、(そのことによって)自分が幸せになる。

これも全く正しい順番ですね!


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喜泉堂 (15:13)

カテゴリ:傾聴

聴くことの力―臨床哲学試論

この本は、ターミナルケア、つまり臨床の場面において、ケアをする人たちをケアすることを目的とした臨床哲学について書かれている本です。

「聴く」ことの力―臨床哲学試論「聴く」ことの力―臨床哲学試論
著者:鷲田 清一
販売元:阪急コミュニケーションズ
発売日:1999-06
おすすめ度:4.0
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難しい言い方ですね(^^)
哲学の本です。私も読むのにすごく時間が掛かりました。

これから少し、この本をリファレンスしながら「聴くこと」について考えていきたいと思います。

そしてそれは、この本が意図しているケアする人(看護士さんとか)をケアすることではなく、私たちの日常の中で、”話を聴くこと”の大切さについて考えてみようということです。

できる限り自分の言葉で、分かりやすく書き綴ってみるつもりです。よろしくお願いします。

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喜泉堂 (15:10)

カテゴリ:傾聴

聴くこと vs 話すこと

東急大井町線の電車の内ドアのところ(随分前の話ですが…)、一番読まれる広告欄は

ぜったい幸せになれる話し方の秘密―あなたを変える「言葉のプレゼント」ぜったい幸せになれる話し方の秘密―あなたを変える「言葉のプレゼント」
著者:佐藤 富雄
販売元:スリーエーネットワーク
発売日:2005-04
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


の本の紹介です。

そっか、「話す事で幸せになれる」のか。 

ということは・・・、「話を聴くことで人を幸せにできる」ということだ!!

なんてことを考えながら、ふと思いました。どうやらみんな、”話を聴くこと”の重要性を軽く思ってしまっているのではないか?

試しにアマゾンで”話し方”という本を検索してみると6,647件あるけれど、”聴き方”や”聞き方”と検索してみると、合わせて953件しかない。

どうやら一度、「話を聴く」ということの重要性について、しっかりと考えてみたほうが良さそうです。


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喜泉堂 (15:08)

カテゴリ:傾聴

コーチング・スキルはコミュニケーション・スキル

これまでコーチングの説明と、コーチングスキルの幾つかを、ざっと見てきました。

いかがでしたか?


何も特別に、新しい話や難しい話はなかったと思います。

そうなのです。コーチングで行うことは、コミュニケーションを円滑に行うための、ごくごく当たり前のテクニックの集大成ということができるのです。

普段の仕事や生活の中でも、使えるテクニックがたくさんあるとおもいます。

ぜひぜひ、活用してくださいね!

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喜泉堂 (02:24)

カテゴリ:コーチング

目標達成プログラム

コーチングでは、相手がどんなときにゴールに向けて動き出せるのか、どんなときにゴールを達成しつづけるのかを、考える必要があります。

ここで重要なことは、ゴールは通過点に過ぎないということです。
コーチは、相手がゴールのさらにその先を見るように、サポートする必要があります。

例えば、就職の内定を受けることや学校を卒業することは、学生にとってゴールではなく通過点です。「卒業したら、その先は?」「就職した後にどうするのか?」「10年後の姿は?」

もっと先の未来を見ることで、目の前の目標に向かって進むことができるようになります。

現在は雇用状況が厳しく、学生の希望する会社ややりたい職種に就職できるとは限りません。しかし、学生に、その先のゴールを見させ、視覚的にはっきりとイメージさせることで、いますべきことを実行に移すことができるようになるのです。

また、コーチングでは、モデルを見つけることで、目標達成の支援をすることができます。このような意味で、目標とする人物や尊敬する人などをイメージさせることは意義があります。

そして、実際に行動をするためには、それなりの情報量も必要となります。
コーチの役目には、積極的な情報提供も含まれます。

目標に関してさらに述べると、
目標は、具体的かつ視覚的なものであり、自分の内面ではっきりとイメージできる目標でなければ、達成されません。

そして、目標に向かって相手が行動できる環境を作ることが重要になります。
環境というのは、行動をするうえで非常に大きなポイントとなることがあるのです。

行動できないのは、相手のやる気が問題ではなく、目標達成に関する知識の問題であると捉えるべきです。

さらに、目標達成のための行動をし続けるための条件として、次の二つが重要となってきます。

 ・思い出させ、忘れないようにしてくれる人がいること
 ・誰かと約束すること

行動を支援するために、進捗マネジメント的な要素も、コーチングには必要ですね!

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喜泉堂 (02:23)

カテゴリ:コーチング

アクナレッジメント(受け入れる)

「ちゃんと話すことができたな。」
「最後まで諦めずに実行したね!」

アクナレッジメントは、相手を認めて受け入れることです。
相手が実行したことの到達点をそのまま口にすることによって、相手が達成感を持つように導くことがでます。

注意すべきことは、アクナレッジメントは、誉めることとは若干違うということです。

「よくやったね」という賞賛は、相手に対しての意見や評価ととられ、素直には受け取られにくいことがしばしばあります。

アクナレッジメントは、「ここまで来たな。」という到達点を事実として伝える分、受け取りやすいものになり、賞賛の一歩進んだ形といえるでしょう。

つまり、アクナレッジメントは、相手に現れている違いや変化、成長や成果に、いち早く気付き、それを言語化して、相手にはっきりと伝えることに他なりません。

相手は、自分の行動を通じて、自分自身が成長し変化していることを知ります。そして、そのことに喜びを覚え、そのこと自体に達成感を持つようになります。

この自己成長感は、相手のやる気や自発性を強く促すエネルギー源となり、相手を結果重視型からプロセス重視型に移行させることができるのです。そして、仕事や生活、学習自体を楽しむことができるようになるのです。

私がコーチングを担当したある学生は、卒業までに就職を決めるという目標を達成しました。電話で「卒業前に決めたね!」というと、「これまでも、自分を変えるために、自ら生徒会長に立候補したり、やると決めたことは全部やってきました。後悔しないためにも、途中で投げ出すようなことはしません。仕事も楽しくやります。」と、改めて自分が達成してきたことを振り返り、大きな自信を得たようです。

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喜泉堂 (02:22)

カテゴリ:コーチング

質問する(クリエイティブ・クエスチョン)

質問することも、コーチングをする上で大切なスキルです。
質問に対して、相手が自分の事として考えることで、自主性が育まれるからです。

例えば、学生に対する就職支援のコーチングをしているときに、学生と話をしていると、「勉強しようと思っているのだけど」。「就職活動をしなければならないのは分かっているのだけれど。」といった答えが返ってくることがあります。

これは、頭で分かっていることと、行動できるということが違うことから発生しています。前にも述べましたが、コーチングで必要なのは、何をすべきかではなく、どうしたらそれができるか、です。

「どういうふうに勉強する予定?」
「どうしたら資格試験に合格するだろうか?」
「書類選考が通らなかったのは、何が足りなかったのだろう?」
「面接に行って、何か気が付いたことはなかった?」

このような「HOW?」や「WHAT?」を使ったオープンクエスチョン(5W1Hを用いて、様々な答えを導き出す方法)は、学生自身で問題を考え、アイデアを発展させることに役立ちます。試験勉強のやり方を工夫する学生や、書類の書き方や模擬面接を熱心に研究する学生の、行動のきっかけになるのです。

コーチングで一番大切なことは、相手の「自発性を引き出すこと」です。
そして、相手の内側にある、その人自身も気が付いていないかもしれない可能性を、コーチとの双方向のコミュニケーションを通じて引き出すことです。

従って、それを引き出すためにどんな問いかけをするのか、つまり、いかに効果的な質問を作り出すかが重要となるのです。

コーチングで質問をする目的を、以下に列挙します。
 ・視点を変える
 ・未来を予測する
 ・リソースを探す
 ・モデルを探す
 ・問題をはっきりさせる
 ・物事を具体的にする
 ・ビジュアル化する
 ・気づきやひらめきを促す
 ・目標を設定する
 ・問題を特定する
 ・考えを喚起する
 ・アイデアを発展させる
 ・知識やスキルを棚卸する

的確で刺激的、創造的な質問は、相手をを創造的にし、行動的にできます。
効果的な質問をするために、以下のことに気をつけましょう。

 �@ 相手に質問をする前に、コーチ自身がまず考えましょう
 �A オープンクエスチョンを使いましょう
   (クローズドクエスチョンでYes/Noの脅迫をしないこと)
 �B 正確な表現を使い、シンプルで的を得た質問をしましょう
 �C 時には図を描いてみたり、ビジュアルを活用しましょう
 �D 質問は、一回に一つという、コーチングの原則に従いましょう


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喜泉堂 (02:21)

カテゴリ:コーチング

聞き分ける

コーチが話を聞くときには、相手の話を聞き分けるために四つのソフトモデルを持っています。

 1.人も物事も支配していくコントローラータイプ
 2.人や物事を促進していくプロモータータイプ
 3.分析や戦略を立てていくアナライザータイプ
 4.全体を支持していくサポータータイプ


相手のタイプを知る上で、注意点が二つあります。

まず一つは、これはどのタイプが優れていてどのタイプが劣っているというものではないということです。どのタイプにも得手不得手があります。ましてや、相手のタイプを変えていこうとする試みは、ナンセンスであるばかりでなく、相手から大きな抵抗を生み出すでしょう。

タイプを知ることの意味は、お互いの価値を認めて、より特性を活かしていくようにすることです。

二つ目は、タイプ分けは人の人格や関わり方を決定するものではないということです。あの人は、このタイプだから、こういう性格だ、だからこういう関わり方をすればいいだろうという安易な決め付けは、コミュニケーションを狭めてしまいます。

タイプ分けは、コミュニケーションの視野を広げるためのひとつの視点として利用していくことが大切でしょう。

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喜泉堂 (02:20)

カテゴリ:コーチング

”聞く”(傾聴する)

聞くことは、コーチングの最も基本的なスキルです。

特に相手の要求を聞くことは、相手が何をしてほしいと思っているのか、何をしてほしくないと思っているのかを、聞いて理解するということです。

「要求を聞く」ことのほかに、「提案を聞く」、「質問を聞く」、という三つの事は、聞くべきことの基本といえるでしょう。

聞く事で会話を広げ、会話を促進する。新しい気付きを与え、複数の側面からの視点をもたらし、広い視野を持ち込む。そして、相手のリソース(夢や目標)を引き出し、考えさせる。

コーチは聞き手にまわり、相手からの要求や提案、質問に耳を傾けます。
聞いてもらえた事で、相手は受け入れられ、お互いの信頼関係を築いてゆくことができるようになるのです。この信頼関係こそが、後々、相手のリソースを引き出し、自己決定を促進させ、具体的な行動を起こす礎となるのです。

相手の話を聞くために、特に次のことに注意する必要があります。
 ・話しやすい環境を作る
 ・効果的な質問をする
 ・確認する

逆に、話しづらい環境として、次のようなことに注意しましょう。
 ・攻撃的な態度
 ・偉そうな態度
 ・心を通わせない様子

「傾聴」のためのポイントを、次にまとめます。
  �@ 時間を取ること
  �A 相手を尊重すること
  �B 話しやすい環境を作ること
  �C さえぎらずに最後まで聞くこと
  �D 判断しないこと
  �E 自分が理解しているかどうか、時々確認すること
  �F 客観的になること
  �G 肯定的なメッセージを出すこと。特に、ボディランゲージに注意すること
  �H 沈黙を大切にすること
  �I コミットメント(合意形成)すること

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喜泉堂 (02:19)

カテゴリ:コーチング

”リクエスト”(要求する)

”リクエスト”により、漠然としていた状況をはっきりさせ具体化させることができます。

「メールしてください。」「その事についてもっと話してください。」「本音は隠さないでください。」

人がひとりでは成し遂げることができない物事を達成するために、コミュニケーションは発達してきたわけですが、それは相手に要求していく行為にほかなりません。

そして、「相手にどうしてほしいのか。」ということを常に確認し、相手からの要求を大切にしましょう。

特に、不平不満の中には、要求が隠されている場合が多々あります。
それを汲み取る事で、私生活や仕事環境などを、向上してゆくことができるのです。

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喜泉堂 (02:18)

カテゴリ:コーチング

コーチングの原則

コーチといえば、ゴルフのコーチを思い浮かべる人も多いと思います。
ところで、タイガーウッズのコーチは、タイガーウッズよりもゴルフが上手いのでしょうか?

実はコーチの役目は、教えることではありません。

 教えるのではなくて、聞く。
 教えるのではなくて、質問する。
 教えるのではなくて、ともに歩む。

コーチは、相手に広い視野を与え、引き出し、考えさせます。
そして、自分自身で問題解決の方法を選択し、自己決定する事で、行動へと結び付けます。

コーチングの原則は、次の三つです。


 ○ 聞かれたら答える。
 ○ 一回にひとつ。
 ○ 相手の感覚を大事にする。それを受け入れる。


さらに、行動を続けていくためにの条件のひとつとして、リマインドさせてくれる人がいることと、誰かと約束することがあります。これも、コーチの役割の一つでしょう。

さて、このコーチングスキルは、大きく次の6つに分類することができます。


 1.リクエスト(要求する)
 2.聞く
 3.聞き分ける
 4.質問する
 5.アクナレッジメント(受け入れる)
 6.目標達成プログラム


それでは、このひとつひとつを詳しく見ていきましょう!

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喜泉堂 (02:13)

カテゴリ:コーチング

”行動”を重視するコーチング

これまで多くの賢者が、その成功の秘訣を説いている自己啓発の本などを読んでいると、一つの共通点が見つけられます。

それはズバリ、「行動すること」です。

行動こそが、成功を導きます。いくら頭の中で考えても、良いアイデアに恵まれても、度重なるチャンスを目の前にしたとしても、行動なくしては成功はありえません。

コーチングで最も大切なことは、「行動すること」であり、コーチの役目は「相手の行動を促すこと」にあります。

そのため、コーチングにおいて必要なことは、”何をすべきか”ではなく、”どうしたらそれができるか”ということになります。

目標を達成するために何をしたら良いかは、考えれば分かることです。もちろんそれが絶対に正しいとはかぎりませんが、正しいかどうかを判断するためには、実際に行動してみなければ分からないものです。

つまり、目標を達成するために必要なことは、どうやったらそれを実行に移すことが出来るのかという具体的な方法であり、そして結果的にそれを実行することです。

しかし、ここに一つの問題があります。それは、知識として頭で分かっていることと、行動できるということの間に、深くて大きな溝(ギャップ)があることです。
そのギャップを埋めるための、もうひとつのアイデアが必要なのです。

ところで、アイデアというと、一般的には”考え”のことを意味します。
しかし先ほど述べたように、考えただけで行動しなければ、なんの価値もありません。

つまり、アイデアとは、行動を伴ったものでなければ本当の意味でのアイデアとは言えないのです。

例えば、将来の夢を達成するために「ライフデザインをする」というアイデアを得たとします。でもそれだけでは、行動には結びつかないでしょう。

・ライフデザインとは、具体的に何ですか?
「ライフプランとキャリアプランを作成することです」
---→なるほど

・ライフプランで何を作成するのですか?
「写真集を作ります」
---→いらない

・他には?
「これからしたいことリストを作ります」
---→それはいいかもしれない。

・どうやって?
「30年先までの未来人生年表を書くんです。」
---→ライフイベント表のことだね。

・誰が書くの?
「私です。」
---→はい。

・どうやって書くの?
「このツールをつかって、年表を埋めていくんです」
---→なるほど。具体的だね。

・それを始めるにはどうすればいい?
「えーっと、いつからすべきでしょうか?」
---→では、今から!

このようにアイデアを具体化し、行動に結び付けていくためには、アイデアを生み出す時以上のコミュニケーションが必要となります。

双方向でアイデアを出し合い、それを検討する。行動に移すためのアイデアもまた双方向のコミュニケーションから生み出す、この一連のプロセスが”コーチング”です。

つまり、双方向のコミュニケーションから課題を解決するインタラクティブ・ソリューションが、コーチングということですね!

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喜泉堂 (02:11)

カテゴリ:コーチング

コーチングスキルとは?

コーチングは、相手の力を最大限に引き出すことを目的とします。

それは、コミュニケーションを重ねることを通じて、相手に、目標達成に必要なスキルや知識を備えさせ、目標に向けての行動を促していくプロセスです。

会話を広げ、会話を促進する、そして、会話の質と量によって相手の自発的な行動を促すためのコミュニケーション・スキルということもできます。

それでは、コーチングの隣接領域をみていきましょう。


カウンセリング

カウンセリングは、自己理解・自己洞察を深め、人生で直面した問題に対する答えを自ら選択し、自己決定していくプロセスを支援します。その結果、相手は自立することができるようになります。

コーチングが目標としている部分と大きく重なりますが、その一番の違いは相手の状態でしょう。

コーチングは、コミュニケーションを受け入れてくれることが前提です。しかし、カウンセリングの場合は、まずはそこから始めなければなりません。大きな問題を抱え、悩み苦しみ、否定的なマイナスの感情に支配されてしまっている場合もあるでしょう。

コーチングでは、パターン化された言葉を投げかけるテクニックがありますが、カウンセリングは常に相手と前例の無い1対1のコミュニケーションを必要とします。
カウンセリングは、専門性の高い職業ということができるでしょう。


人生相談

コーチングでは自らが選択し決定することを重視しますが、人生相談では過去の経験に基づく一方的なアドバイスに終始しやすい部分があると思います。


教育

コーチングでは教えるのではなく自ら学ぶ行動を促しますが、教育では知識やスキルの伝達に重点が置かれます。


コンサルティング

コーチングではどうすればそれが達成できるかに焦点を当てて相手の行動を促しますが、コンサルティングでは問題の解決に焦点を当てて相手の環境を変化させようとします。

例えば、コーチングでは、相手がどう行動すればいいかを考えます。しかし、コンサルティングでは、問題を解決するために相手と関係する人物(例えば部下)を変えてしまう事で問題を解決することもあるのです。


このようにコーチングは、専門的な職業ではなく、コミュニケーションスキルの一つと捉えることもできるとおもいます。

このコーチングスキルを体得することで、コミュニケーションを円滑に進められるようになるとしたら、キャリア構築において是非とも手に入れておきたいスキルの一つですね!



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喜泉堂 (02:08)

カテゴリ:コーチング

コーチングとの出会い

私とコーチングとの出会いは、ネットで学ぶことで高校の卒業資格を得られるハイスクールのコーチングティーチャーのトレーニングを受けたことが始まりです。

その後、専門学校の副担任として学生ケアを担当し、学生の自学習や就職活動の支援をメールコーチングで行いました。

もちろん、必要なときには会って話をしたり電話したり手紙を書いたり、コミュニケーション手段はその時々で一番良い方法を使います。

このときに、コーチが教師とは全く違う立場で活動できること、
教えるのではなく自ら学ぶように導く事で学習意欲が高まり教育との相乗効果が高まること、
そして、学生の自立的姿勢の基本を確立し自らが前向きに行動してゆけるように支援できることを学びました。

スポーツ選手へのコーチング、経営者(エグゼクティブ)へのビジネスコーチング、学生への学習コーチングだけでなく、最近では一般企業の中でマネジメントコーチングが注目されています。

さらに、個人でコーチングを受けるパーソナルコーチングも珍しいことではなくなりました。
自分のパフォーマンスを、コーチの力を借りて最大限に引き出し、コーチと共に目標実現に向かっていくのです。

みんな同じというマスの時代から、ひとり一人の価値を追求する個の時代へと変化している現れだと思います。

企業の中で、キャリアを開発していく大きな方向性として、二つあるとおもいます。
一つは、専門職としてプロフェッショナルへの道を進むコース、
そしてもう一つは、総合職としてマネジメントへの道を進むコースです。

とくにマネジメントへ進むときには、部下をまとめるリーダーシップだけでなく、部下の力を最大限に引き出すコーチングの力が求められるようになってきているのです。

ところで、このコーチング。
カウンセリングとどうちがうのでしょうか?
コンサルティングとはどうちがうのでしょうか?

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2010年7月 7日

喜泉堂 (16:15)

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