やなぎのようにしなやかな会話
タイミングが、間が、うまくとれないとき、ひとは自分が発したことばで自他のすきまを埋めようとします。そうして、息せき切ったように話しながら、ほかならぬそのことによって自分が撒いたことばの集積のなかに閉じこもる。すると、じぶんをささえてくれるはずの他者との接触が、自己を侵犯してくる暴力へと裏返ってしまうことにもなります。
<間>のない会話は、クッションの無い箱の中の卵のようです。
箱の揺れとともに、固くてもろい表面がじかにごつんごつんと当たり、押しあいながら、やがてその表面にひびがはいってきてしまいます。
間 という、揺らぎを許容するすきまが、剛性ではなく柔性が、ひとの存在にしなりやたわみといった、少々のことではポキッと折れたりしないしなやかな強さを与えます。
逆に、間が大きすぎ、その隔てがほとんど壁のようになっているばあい、ことばは形式的なやりとりになり、ことばがたしかに相手にとどき、そしてその存在の奥深くに浸透してゆくということが起こりえなくなります。
そんな間の悪さから、できることなら相手の目の前から居なくなってしまいたいという居心地の悪さだけが、語らいのなかから浮き出しています。そうして、自己の内に撤退しようとしても、じぶんのなかをいくら覗き込んでみても、”これがじぶんだ”というものが見つかるわけではありません。自己の同一性、自己の存在感情というのは、日常的にはむしろ、(目の前にいるかいないかとは直接は関係なしに)他者によって、あるいは、他者を経由してあたえられるものであって、自己のうちに閉じこもり、他者から自分を隔離して得られるものではないのです。
他者から隔離されたところでは、ひとは<自己>を追い求めて、堂々巡りに陥ってゆきます。みずからの尾を呑み込みつづけるウロボロスの蛇のようなグロテスクなかたちでしか、じぶんにかかわれなくなってします。
私たちは、会話のにある<間あい>のお陰で、他人との関係の少々の齟齬やずれが、決定的なダメージにならなくてすんでいるのです。
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