眼がかちあうということ

誰かと眼がかちあったとき、ドキッとして視線を逸らした経験はあるでしょうか?
別に悪いことをしているわけでもなく、特別な意識が無くても。。
知らない人と眼があった時だけでなく、知っている人とでも。。。

”わたしは他人がなにかを見ているその姿を、脇からそっと見ることはできる。
しかし、見ているその人がわたしのまなざしを頬に感じて、ふとまなざしをこちらに向けると、わたしはあわてて眼を伏せたり、視線を外したり、どぎまぎして視線をうつろに漂わせたりする。そのうちにまた気になって視線を戻すが、眼があってしまうと顔はひきつってしまって、相手の眼(まなざし)や顔(おもざし)を対象として見る、眺めるといった余裕は無くなってしまう。他人(の顔)を見るとわたしたちはかんたんに言うけれど、他人を見るということがもしある対象を見るように見るということであれば、それは、鍵穴から覗くとか医師が患者を診るとか画家がモデルを見つめるといった場合のように、きわめて例外的なケースであると思われる。”

この文章に、もしかしたら共感を覚えない人もいるかもしれません。
人の眼を見て話すことをごくごく自然にできるひとを、私は何人か知っていますから。
でも私は、この文章にすごく共感してしまうのです。ふと眼があってしまったときに、まるで逃げ場所を失ってしまったかのような、あの感覚。もはや逃げることもできず、隠れることもできず、後戻りができなくなってしまった場面。かといって気まずい雰囲気になるわけでもなく、いやむしろそのことによって相手との距離が一歩近づき、親しくなれたかのような不思議な感覚なのです。

でも、まだよく分かりません。私はそんなに目が良くないのだから、相手の黒い眼が私の顔を見ているのかそうではなくただその近くを見ているだけなのか、判断できるわけでもないのに、でも何故か、その二つの黒い丸が私を見ていて眼があったと分かる、その感覚はどこからくるのだろう? それはきっと、視力で判断しているわけではないのでしょう。

そこにはシンクロニズム(共時性)の世界があり、そのとき同じ空間に居て同じ時間を共にしているからこそ、まるでテレパシーのようなものを感じることができると思うのです。


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