だれかに遇うということ

「わたしは、彼らがわたしはこうであるというところの者でもないし、自分はこうであるとわたしが言うところのものでもない。」

自他が補完的であるというのは、自他のどちらかが関係において一方的な規定をもつことがないということです。

そしてそれは、”だれと”まみえるかが、(他者の他者としての)自己の規定に深く関わることを意味するようです。

「だれと遇うのか。」 その”だれ”がそのつど具体的な特定の他者であって、他者一般ではないということは、重要ないみを持ちます。なぜなら、じぶんがまみえているその他者がだれであるかによって、その場の構造が変わってくるからです。逆に、他者の「だれ」にまったく無頓着な、つねにニュートラルな立場は、ときに、あらゆるものにありうるという意味で他者を他者自身に深く媒介しうる可能性を持つとともに、しかしニュートラルがニュートラルなままで終始したときには、むしろ他者ののっぺらぼうの鏡と化して、逆にひとを自己閉鎖へと動機付けてしまうことにもありかねません。

ひとが特定のだれかといして他のだれかに遇うということ。そこには、遇われる他者の偶然性が含まれます。

自分が他者を選ぶのではなく、他者とそこで遇うのだということです。


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