ただお茶をいれるということ

「ある看護婦が、ひとりの、いくらか緊張病がかった破瓜型分裂病患者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。<だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれて初めてです。> 」(『自己と他者』:R・D・レイン)

”だれかにお茶をいれるということ、これはだれもが日常的にしていることである。この患者とていままでに一度も他人にお茶を入れてもらった経験がないわけではないだろう。ではどうして、これを「生まれてはじめて」と感じたのだろうか。
 精神科医のレインは、こう解釈している。あるひとがわたしに一杯のお茶を入れてくれるばあい、そのひとはわたしの気を惹こうとしているのかもしれない。わたしを味方につけようとしているのかもしれない。わたしに親切にしておいて、あとからなにかをぜびろうという魂胆があるのかもしれない。あるいは、じぶんの茶碗やティーポットを見せびらかしていることもありうる。あるいは、あるいは・・・。
 だれかにお茶を入れるということ、そのことが、他人に求められたからでなく、業務としてでもなく。もちろんティーセットを自慢するためでもなく、「だれかのため」「なにかのため」という意識がまったくなしに、ただあるひとに一杯のお茶を供することとしてあって、それ以上でも以下でもない、そういうふうにして他人にお茶を入れてもらったと患者が感じたことはこれまでなかったというのだ。
 ことばもなく、ただお茶を供するだけの行為が、どうしてこうも深い充足感をもたらすのだろうか。間がもたない、間をとれないという、わたしたちが日々、他人との会話の中で味わうあのぎこちなさとは、およそ正反対の時間である。”

とても深い内容だと思います。合理的に考えて行動していることの多い現代社会では、このような場面に出会うことはもしかしたら少ないかもしれません。
私たちは、日々を生きていくために、どうしても知らず知らずのうちに計算してしまう癖がついていると思います。
「あることの為に〜をする。」「〜だからこうなる。」 物事には全てに原因と結果があるでしょう。何かが存在したり、何かをしたりすることには、なにかしらの理由があるでしょう。
でも人は、理由さえないところに、すべてを超越したところに、深い感動を覚えるのだと思います。

そのためには、自分自身が、一致している(受容)こと、つまり、ありのままの透明な自分でいることが、とても大切なことだと思います。




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