ただお茶をいれるということ
”だれかにお茶をいれるということ、これはだれもが日常的にしていることである。この患者とていままでに一度も他人にお茶を入れてもらった経験がないわけではないだろう。ではどうして、これを「生まれてはじめて」と感じたのだろうか。
精神科医のレインは、こう解釈している。あるひとがわたしに一杯のお茶を入れてくれるばあい、そのひとはわたしの気を惹こうとしているのかもしれない。わたしを味方につけようとしているのかもしれない。わたしに親切にしておいて、あとからなにかをぜびろうという魂胆があるのかもしれない。あるいは、じぶんの茶碗やティーポットを見せびらかしていることもありうる。あるいは、あるいは・・・。
だれかにお茶を入れるということ、そのことが、他人に求められたからでなく、業務としてでもなく。もちろんティーセットを自慢するためでもなく、「だれかのため」「なにかのため」という意識がまったくなしに、ただあるひとに一杯のお茶を供することとしてあって、それ以上でも以下でもない、そういうふうにして他人にお茶を入れてもらったと患者が感じたことはこれまでなかったというのだ。
ことばもなく、ただお茶を供するだけの行為が、どうしてこうも深い充足感をもたらすのだろうか。間がもたない、間をとれないという、わたしたちが日々、他人との会話の中で味わうあのぎこちなさとは、およそ正反対の時間である。”
とても深い内容だと思います。合理的に考えて行動していることの多い現代社会では、このような場面に出会うことはもしかしたら少ないかもしれません。
私たちは、日々を生きていくために、どうしても知らず知らずのうちに計算してしまう癖がついていると思います。
「あることの為に〜をする。」「〜だからこうなる。」 物事には全てに原因と結果があるでしょう。何かが存在したり、何かをしたりすることには、なにかしらの理由があるでしょう。
でも人は、理由さえないところに、すべてを超越したところに、深い感動を覚えるのだと思います。
そのためには、自分自身が、一致している(受容)こと、つまり、ありのままの透明な自分でいることが、とても大切なことだと思います。
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